薄毛を自覚してから、俺は“隠す”ことに必死だった。
丸坊主かカツラか、その二択しかないと思い込んでいたあの頃。
粉、セット、なんとなくの育毛剤。
誤魔化しながらやり過ごす日々の中で、削れていったのは髪よりも自信だった。
これは、逃げ続けた男が初めて向き合うまでの話。
ハゲたら終わりだと思っていた
丸坊主か、カツラか
あの頃の俺の頭の中にあった選択肢は、極端だった。
丸坊主にして覚悟を決めるか。
それともカツラで完全に隠すか。
ハゲたら、どちらかしかない。
グレーはない。中間もない。
ゼロか100か。
なぜか本気でそう思っていた。
中間という発想がなかった
「少し薄い」とか、
「うまく付き合う」とか、
そんな柔らかい発想はなかった。
ハゲは“完成形”になってからの話だと思っていた。
途中経過なんて、考えていなかった。
だからこそ怖かった。
進行している感覚はあるのに、
まだ丸坊主にするほどでもない。
この“中途半端”が一番きつい。
でも当時の俺は、それを認める言葉を持っていなかった。
「粉」という文明との出会い
そんなときに知ったのが、いわゆる「粉」だった。
振りかけるだけで地肌が消えるらしい。
ボリュームが出るらしい。
正直、衝撃だった。
こんな文明があるのか、と。
丸坊主でもない。
カツラでもない。
その間を埋める存在。
夢みたいじゃないか。
あのときの俺にとって、それは希望だった。
“終わり”を先延ばしにできる魔法の道具。
でもまだ、この先に待っている虚無のことは知らなかった。
“久しぶり”が一番怖い
毎日は変わらないという錯覚
毎日鏡を見ていると、変化はわからない。
昨日と今日の差なんて、ほとんどない。
少しずつ、ゆっくり。
本当にゆっくり進んでいる。
だから思う。
「まだ大丈夫」
「そんなに変わってない」
それは半分本当で、半分錯覚だ。
自分の時間軸は“連続”だけど、
他人の時間軸は“断絶”だということを、
この頃の俺はまだ理解していなかった。
再会で言われる「一気にきた?」
同級生との飲み会。
昔のバイト仲間との再会。
数ヶ月、あるいは一年ぶりに会う人間の第一声は、
だいたい軽い近況トークだ。
でも、時々混じる。
「え、ちょっと一気にきた?」
一気じゃない。
毎日、少しずつだ。
でも相手からすれば、
前回の記憶と今を一気に比較する。
だから“急激な変化”に見える。
他人の時間軸は残酷だ
自分の中ではグラデーションでも、
他人の中ではビフォーアフターになる。
その差は、思っている以上に大きい。
「あれ、前こんなんだっけ?」
その一言に、心がざわつく。
だから粉を使う。
だからセットを変える。
“久しぶり”に備えるために。
毎日は平気でも、
再会は、容赦がない。
初めての粉、そして事故
思ったより黒い
初めて粉を使った日のことは、今でも覚えている。
洗面台の前で、説明書を何度も読んだ。
「軽く振りかける」
簡単そうに書いてある。
いざやってみると――
思ったより黒い。
思ったより密度が出る。
思ったより“塗ってる感”がある。
地肌は確かに消えた。
でも代わりに、どこか不自然さが生まれた。
鏡の中の自分に、違和感が残る。
足して、足して、やりすぎる
「ちょっと薄いか?」
そう思って、少し足す。
横から見る。
上から見る。
スマホのカメラで確認する。
「もう少しいけるか?」
また足す。
気づけば、最初より明らかに黒い。
でもここまで来ると、引き返せない。
減らせないから、もうこのまま行くしかない。
あの日はきっと、やりすぎていた。
誰も言わない優しさが一番つらい
飲み会の席。
いつも通り笑い、いつも通り話す。
誰も何も言わない。
それが逆に怖い。
本当に自然だったのか。
それとも、触れない優しさだったのか。
「今日ちょっと黒くない?」
そう言われたほうが、まだ楽だったかもしれない。
バレているかもしれないという想像は、
指摘よりもじわじわ削る。
粉は地肌を隠した。
でも不安までは消してくれなかった。
あるところから持ってくる男
若さを再現しようとする髪型
粉だけでは足りなかった。
次に手を出したのは、セットの変更。
いわゆる、“あるところから持ってくる”スタイル。
まだ元気なエリアから前へ流す。
ボリュームがあるように見せる。
20代らしい髪型を、なんとか再現しようとする。
本当は気づいている。
若さは髪型で作るものじゃない。
でも、せめて見た目だけでも取り戻したかった。
ワックス、スプレー、そして強風
朝、時間をかけてセットする。
ワックスで流し、形を作る。
スプレーで固める。
崩れないように祈る。
完成直後は、悪くない。
むしろ「今日いけるかも」と思う日もある。
でも敵は外にいる。
エレベーターの風。
ビルの隙間風。
そして信号待ちの強風。
そのたびに無意識に手で押さえる。
崩れていないか確認する。
戦っているのは営業成績じゃない。
風だった。
自分では成功、他人からはアウト
鏡の前では、ギリギリ成功に見える日がある。
「今日、自然じゃないか?」
そう思って家を出る。
でも後から写真を見ると、違う。
トップだけ不自然に浮いている。
横から見ると謎のボリューム。
自分の中の“セーフライン”と、
他人の“アウトライン”は一致していなかった。
それでもやめられない。
何もしないより、何かしているほうが安心だったから。
気づけば俺は、
自然に見せるために、不自然な努力を重ねていた。
黒い水が流れた夜
飲み会後の最終チェック
飲み会の終盤、トイレに立つ。
酔いより先に気になるのは、頭だ。
鏡の前で角度を変える。
ライトの下で透けていないか確認する。
「大丈夫か?」
「まだいけるか?」
そんなことを考えながら、最後のチェックをする。
営業トークよりも、
今日いちばん集中している瞬間だったかもしれない。
シャワーで落ちる“演出”
家に帰る。
スーツを脱ぎ、風呂場へ。
シャワーを浴びた瞬間、
黒い水がすっと流れる。
排水溝に向かって消えていく色。
ああ、これは“演出”だったんだな、と理解する。
今日一日、俺の頭の上にあったのは、
本来の自分じゃない何か。
落ちていくのは粉なのに、
どこか自分の一部が剥がれていく感覚があった。
これが本体か、と思った瞬間
タオルで髪を拭き、鏡を見る。
そこには、何も乗っていない自分。
セットも粉もない、
“加工前”の姿。
「ああ、これが本体か」
声には出さなかったけど、心の中でそうつぶやいた。
外で戦っていたのは演出された自分。
本当の自分は、ずっとここにいた。
その夜、妙な虚無が残った。
隠せても、消えてはいないという現実だけが。
削れていたのは髪じゃない
飲食時代の俺との違い
昔、飲食店でリーダーをやっていた頃の俺は、今よりずっと前に出ていた。
声も大きかったし、姿勢も伸びていた。
忙しい時間帯ほどテンションが上がるタイプだった。
写真を撮るとなれば、だいたい真ん中。
自然と中心に立っていた。
それがいつの間にか、変わっていた。
営業会社でくたびれたわけじゃない。
忙しさのせいでもない。
少しずつ、自分を小さくしていたのは、たぶん俺自身だった。
写真で前に出なくなった理由
集合写真のとき、無意識に後ろへ回るようになった。
「いや、いいよいいよ」
そう言いながら、端のほうに立つ。
理由ははっきりしている。
ライトの下で透けるのが嫌だった。
角度によっては目立つのが怖かった。
だから前に出ない。
中央に立たない。
ほんの小さな選択の積み重ねが、
自分の立ち位置を変えていった。
自信は静かに減っていた
髪が減っていると感じていた。
でも本当に削れていたのは、自信だった。
人前で堂々とすること。
視線を気にせず笑うこと。
粉で隠し、セットで誤魔化し、
なんとなく育毛剤を塗る。
それは対策のようでいて、
どこかで「もう弱い」と認めている行為でもあった。
変化はゆっくりだった。
だから気づきにくかった。
でも振り返ると、あの頃の俺は確実に小さくなっていた。
削れていたのは、髪だけじゃなかった。
とりあえず塗るという安心
本気じゃない育毛剤
この頃から、育毛剤を使い始めた。
ドラッグストアでそれっぽいものを買って、
風呂上がりに頭皮へつける。
でも、本気じゃない。
調べ尽くしたわけでもないし、
成分を理解していたわけでもない。
気分でサボる日もある。
酔って帰った日は忘れる。
どこかで思っていた。
「まあ、やらないよりはマシだろ」と。
やってる感という精神安定剤
正直に言うと、欲しかったのは効果より安心だった。
今日も塗った。
今日も一応やっている。
その事実が、少しだけ気持ちを軽くする。
本当は不安なのに、
何もしていない自分が一番怖かった。
だから“やってる感”を手に入れる。
それは頭皮というより、
心に塗っていたのかもしれない。
それでもゼロよりマシと思いたかった
効果を実感していたかと言われれば、正直わからない。
でも、ゼロよりはマシだと信じたかった。
完全に何もしていない自分より、
一応対策している自分のほうが救われる。
本気で向き合う覚悟はまだない。
でも放置する勇気もない。
だから、とりあえず塗る。
あの頃の俺は、
決断の代わりに習慣を選んでいた。
逃げから、決意へ
もう誤魔化せない
粉も、セットも、なんとなくの育毛剤も。
全部やった。
それでも、夜の鏡の前では元通り。
「まだ大丈夫」
そう言い聞かせる回数が増えるほど、
逆にごまかしが効かなくなっていった。
久しぶりの再会が怖い。
写真が怖い。
強風が怖い。
気づいたときには、
髪よりも“気持ち”が限界に近づいていた。
もう誤魔化せない。
そう思ったのは、ある意味で救いだった。
初めて本気で調べた夜
その夜、スマホを手に取った。
いつもの「育毛剤おすすめ」ではない。
もっと具体的な言葉を打ち込んだ。
「AGA」
「治療」
「本当に効くのか」
軽い気持ちじゃなかった。
逃げ道を探す検索ではなく、
覚悟を探す検索だった。
値段を見る。
副作用を見る。
体験談を読む。
怖さと同時に、
どこかで安心もあった。
“対策”ではなく、“治療”という言葉が、
初めて現実味を帯びた夜だった。
AGAクリニックという選択肢
正直、最初は抵抗があった。
「そこまでいったか」
自分で自分にそう思った。
でも同時に、こうも感じた。
「ここから始まるのかもしれない」と。
隠す日々は、どこか後ろ向きだった。
でも調べている自分は、少しだけ前を向いていた。
逃げ続けるか。
向き合うか。
その分岐点に立った夜、
俺は初めて“決意”という言葉を意識した。
次は、初診。
緊張と、少しの希望を抱えて。
ついに踏み出す、AGAクリニック初診。
問診票に書く「いつから気になりましたか?」の一言が、やけに重い。
逃げの延長だった対策は終わり、本当の意味での“治療”が始まる。
緊張と少しの期待を抱えながら、俺は診察室のドアを開ける。



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